弁財天や布施弁天と東海寺の歴史についてお話しします

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布施弁天について

弁財天布施弁天と東海寺の歴史についてお話しします。

弁財天

弁財天はインド神話に出てくる河川神を神格化した女神のことです。俗に弁財天とも書き、略して弁天と呼びます。

この神は人の汚れを払い、富・名誉・福徳・食物を与え勇気と子孫とを恵むとされ、のちには学問と技芸の神、雄弁と知恵の保護神としての地位を与えられたのです。

一方仏教では無礙弁天をそなえ、福知を増し、長寿と財宝を得さしめ、天災地変を除滅し、かつ戦勝を得させる天女とされます。

殊に日本では江戸時代に七福神の1つとして、もっぱら福徳財宝の神であるとして衆庶の信仰をあつめました。

関東三弁天

弁財天の祠が多く水辺にあるのはもと河川神であったことに由来し、古来、近江の竹生島、相模の江の島、安芸の厳島、陸前の金華山、大和の天の川をもって本邦五弁天と称しました。

これに対して関東では、先の江の島、上野不忍に布施弁天を加え関東三弁天と呼んでいました。

亀の甲山と弁天社地

ところで、当地は元禄11年(1698年)知行替が行なわれ、上州利根郡沼田城主本多伯耆守の領分となりました。

それにともなって同年、領主に差し出した絵図面には亀の形の山がみえ、この時初めて弁天社地の図が確認されるに至ります。

そして、翌12年亀の甲山は社地として認められ除地となり、供免田2箇所も同様の扱いを受けました。

東海寺

一方、弁財天の別当所である東海寺は、寛永9年(1632年)の「関東新義真言宗末寺帳」にその名はありませんでした。しかし、その所在は鎮守香取妙見の社地(古谷)にあって別当を勤めていましたが、亀の甲山が除地となると、同年15年には、わざわざ東海寺から弁天社地に留守居を出張させるようになりました。

東海寺と弁財天

しかしながら思うもまかせず、ついに宝永元年(1704年)当寺を弁財天境内へ移転したいと願書が出されました。その結果、翌年、当寺は古屋から弁天社地へ移転することとなり、ここに東海寺と弁財天は一体の歴史を歩むこととなったのです。

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